雨の庭、ドビュッシーの「版画」より

人生回り道をしている元受験生、現医学生が、思うことをつらつらと。

濡れ落ち葉

今年の冬の訪れは普段より早いらしい。

北陸の紅葉も、いつ見ようかと思っているうちにあらかた散ってしまった。


濡れ落ち葉を踏みしめて、あの妙に落ち着くような匂いを吸い込むと、あの思い出す情景がある。


幼き日、祖母に手を引かれて歩いた帰り道。柔らかな落ち葉を踏みしめて歩いた。

澄み渡る晴れの日、家に帰れば、自分の背丈ほどもあった熊手で子供なりに庭の欅の落ち葉を掃いた。


長雨の晩秋。確か、十六の年の。

いつになっても持ち主の来ないの机と椅子を眺めつつ、虚ろな目をして歩いた帰り道の濡れ落ち葉。


街路樹の落ち葉。

人生で最も御し難い怒りと悲しみと、その反面の感情を抱いた家族が、ある日突然、こころの奈落に落ちた日。カサカサと乾いた音を立てて吹かれていた落ち葉に、にわか雨が降り、行き場を失った日。


濡れ落ち葉は、どうしてなのか、そんな記憶の断片ばかり、思い返させてくれる。

祖母は年老い、机の持ち主は、消息知らず、家族はまだ‥。




折り返しつつ

 

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直近のエントリが2月だったことに戦慄すら覚える。

その後のことなど。

 

3月 コンサートのためにサックスを練習してるうちに終わった。

4月5月 日々の生活がすなわち解剖学であった。解剖についてはエントリを改める。

6月7月 解剖学が終わり、本格的な座学に移行。講義の知識は残っているのだが、講義自体の印象が皆無。

7月下旬から8月 北海道旅行。恋人と。レンタカーでまあよく走った。余市の再訪が叶ったのと、知床半島の相泊(車で行ける限界)まで行けた。

8月 その他:突発的に名古屋までドライブ、帰省と某学会サマースクールへの参加。

9月 あれ?夏休みは?と思っているうちに講義が始まってしまった(畜生め)。試験勉強して本試験受けてるうちに終わり。

10月 毎年恒例の再試験を受けているうちに後期が始まり、今に至る。

 

来年もこんなカリキュラムになるであろうことがわかっているので、今のうちから落胆を禁じ得ない。医学生なる生き物の宿命らしいが。。。

 

前の大学時代の事を回想すると、私はかなり不真面目な学生だったと思う。

大学に行くのは週一回のゼミの時だけ、なんてこともざらにあったし、経済学部の専門科目の講義で、初回と最終回しか出席しなかったものも一つや二つではない。

当時は(学部四回生の途中までは)卒業したら順当に社会の歯車になると思っていたし、学問そのものを生業にすることなど微塵も考えていなかったからだ。

唯一ほとんど出席したのは医療経済学くらいか。あの講義を聞いたことが今の進路を選ぶにあたり数パーセントくらい影響しているかもしれない。

当時はいったい何をしていたのだっけ?

一回生の頃の記憶はあまり無いのだが、経済的には今ほど恵まれてなかったので諸々のアルバイトに精を出してたように思う。その他は、あてもなく鉄道に乗り、一日中車窓を見ていたことが何度もあった。新快速に乗って、遠く福井や岡山まで日帰りで行ったことも。あとはよく昼間から酒を飲んだり、安いカフェで煙草を吸ったりしていたような。そして京都という狭い町を自転車であちこち移動した。現在まで交流のあるいろんな人と知り合った。

 

現在在籍してる大学は、厳密に出席を管理していて、学則で単位取得に必要な出席回数を定めている。したがって、代筆などの姑息な手段を使わない限り、基本的には全講義の三分の二は大学に行かざるを得ないのだ。

京大時代は、というと殆ど出席を取られた記憶がない。せいぜい、外国語の大部分と門科目の物好きな教員くらいか。講義の出席点というのは、そこに居れば降ってくるありがたい代物だった(とともに、元来怠惰な私は出席すら億劫で出席点を手に入れられず、単位を放棄した科目は数多あり、試験を受けられるものについては期末試験で一発逆転を狙ったものだ)。

しかし、出席なんて取ったところで、である。

その場に居ても講義なんて上の空の人が多いだろうし、出席したところで何にも得ない可能性は大いにあるのだ。逆に、初回最終回以外一度も出席せずとも自宅で資料や成書を読み込んだものの方が、後になっても頭に残っていたりする。

単位についても同じようなもので、試験前の一夜漬けで単位を掠め取った専門科目の中身など、ほとんど覚えてもいないが、単位すら修得できなかった他の学部の講義の中身や、その教員の強烈な個性の方が記憶に残っているものなのだ。

まあ、内容を覚えていることがえらい事だとは思ってはいない。むしろ、記憶の中で眠っている忘れたと思っていた事柄の方が、ある日突然思い出したときに現実で化学反応を起こすように思う。

 

すでに察しの通り、私は単位や出席といったものが好きではない。

そんなものは、せいぜい学びの手段か結果であって、目的ではない。

学び自体は、たとえどんな立派なハコがあろうとも、そこに居ようとも、試験で高得点を取ろうが、学ぶ意欲も興味もなければどうしようもない。

そもそも大半の学びは、ハコなしでも可能なものだ。それが医学部の講義室だろうが、パソコンの画面だろうが、スタバで読んでる本であろうが、得られる知識は変わるまい。(知識が学びのすべてか、といえばそうでもない気がするが)

 

後々我々の中に残るのは、本人が学びたいと思って学んだものだけだと思っている。

だから、私にとっては、数回しか出ていないが忘れられない経済学部の講義も、どこかの喫茶店で煙草をふかしながら読んだ小説も、そして今研究室で読んでいる専門書も、不承不承で出席用紙を書きつつ、面白いと思って聞いているいくつかの基礎医学の講義も、等しく、学びたいと思って学んだものなのだ。

 

そして明日も一限から講義らしい。

聞きたいと思えば、その講義を聞こうと思う。

 

 

 

 

一年を振り返り

今まで、過去にまつわる話ばかり書いてきたので、たまには最近の生活も。


医学部に合格してから、約一年が過ぎた。

受験している当時は、一年後のことなど想像すらしてなかったし、今も、当時想像しなかった状況にいる。在籍する大学、研究、人間関係‥etc。


・研究室

京大時代、週1でしか大学に行っていなかったが、この大学では疫学をやろうと研究室に席を置いている。今は論文を読んで、自分の研究デザインを組んでいるところ。

金融市場相手の統計は、やや単調な所もあるが、疫学のための統計は面白い。そのぶん難しいのだが。


・学業

まずまずの成績で二年への進級が決まった。

鬼門である科目は一発で通したし、レポートを課された以外は再試験にもならなかった。

ただ、まだ専門科目に入っていないため、正直、解析学と化学以外あまり面白いと思えなかったのも事実。

単位認定をフルに使ったため、それでも、同級生よりはかなり暇な時間割であった。来年度から、週20コマの生活に耐えられるかやや心配(耐えないと即留年なので)。


・部活

これが3つも入ってしまい、驚くことにどれも続けている。うち一つは不定期のサークルなので実質2つか。

管弦楽は時間を取られるため、また諸々の人間関係の諍いがあったため一時期本気で退部を考えたが、楽器が弾ける環境がないので未だに続けている。マネジメントに回って裁量が増えたなら、気軽に行ける程度に継続するし、それで上級生と揉めるくらいなら即退部するつもりでいる。


・旅行

偶数月には京都に行った。

長い旅行としては、九州方面、北海道方面へ夏休みに行った。

車中泊を駆使した旅行だったが、二十代のうちにしか出来ないであろう経験なので、なかなか貴重な体験となった。エントリをまた改める。


幸い、大した苦労もなく二年生に進級しそうである。基礎医学こそ、医者の能力を決める学問領域と考えているので、何にも増して本気で取り組みたい。


追記

入学試験

センター試験で一部失敗したため、京大時代の同期が進学した今の大学に志望変更。

筆記試験は得意の英語に助けられ、化学での失敗を取り返してまずまずの出来(この段階で、合格者平均は超えていた)。

その夜駅前で痛飲したため、翌日見事に二日酔い。面接室でも頭痛が抜けず、意表をついた質問をされた時には死ぬかと思った。現役/浪人の受験生とはうって変わり、京大の卒業研究についてのプレゼン大会状態に。

面接点は合格者最低レベルだろうが、無事合格。


恋愛

昨秋より同期と交際中。


その他

車を買うことにした。やはり自動車社会のこの地で、自転車のみで生活するのは無理だった。。。


存在への愛

対人的なものではなく、音楽に対する個人的な思い入れの話。

 

気づけば、音楽は私のそばにあった。

それが空気のように当たり前であったため、そこから遠く離れてみるまで、気づかなかった程度には。

 

乳児のころから、クラシックをBGMに聴かせると泣き止むような子供であったらしい。

それは父が語った話なので、その真偽のほどは知りかねるものの。

 

4歳から14歳まで、私は地元の千葉の片田舎でヴァイオリンを10年習っていた。スズキメソードの8巻までいったが、大して上手くはならなかったし、ましてや、音楽を生業にする事など到底叶うはずのない腕前ではあった。

 

私の、鮮明に思い出せる範囲での最も古い記憶は、小学校低学年のころのものであるが、それは、何れもが音楽に(当時習っていたヴァイオリンに)関係するものであった。少なくとも、その記憶の範囲においては、私は無垢に音楽とヴァイオリンを、子供なりにではあるが、愛していたように思う。

 

いつの間にか、それはレッスンへの嫌悪とヴァイオリンの嫌悪へと変わっていた。

いつからだかは、覚えていない。

二次性徴、自我の目覚めのころには、すでにレッスンは忌避すべきものであったし、練習は家族の前でするものではないと思っていた。不思議と、誰もいない家の中で練習をするのは苦でなかったし、むしろ、新鮮な経験だったのではあるが。

 

無垢な楽器へと音楽への愛は、なぜ、変質してしまったのだろう。

ひとつには、同年代の、天賦の才を有する奏者の存在を知ったこと。

子供っぽい、原始的な嫉妬のようなもの。だが、それは、今なら自分の未熟さとして納得できるのだ。

 

もうひとつには、私の楽器に対する母の言動。

彼女は、その当時、家庭の子供に対して冷笑し難点を論うことこそすれ、滅多に、自分の子を褒めない人間であった。

私にとって親離れは、妹(6歳下)の産休を終えた母が職場に戻るのと同時に来た、いわば強いられたものであったし、当時まだ、潜在的に、両親の賞賛を得たいという素朴な感情を私は有していたのかもしれない。

その中で、私の演奏技術や(それは、決して褒められたものではなかった)練習態度に対する母の言動一つ一つが、知らぬ間に、幼き日に抱いていた音楽と楽器への素朴な感情を、不可逆的と思えるほどに変質させてしまったのであろう。

 

いま、公平のために記しておけば、当時母親の職場は過労死レベルの職場環境で、その中で我が子の難点にばかり目が行ってしまう精神状態であったのかもしれない。当時、いくらませていたとはいえ、私はそうしたことを忖度できるほど成熟してはいなかったようだ。(当時に比べれは、今の母親の人格は、良くも悪くも変貌してしまった)

 

さらにもうひとつは、田舎という閉鎖環境でのヴァイオリンの好奇の目線。

元から、義務教育では問題児で(勉強がわからなくて悩むことがなかったから。授業中は暇で寝ていたり机に落書きしていたりしていたのが、教師の不興を買ったらしい)

ただでさえ閉鎖的・均質的な故郷の学校空間に、私の居場所はなかったのだが、何かをきっかけに全校に知れ渡った、私が楽器を習っているという事実は、いっそう小中学校を居心地悪いものにした。

 

小学校高学年から中学校の中途にかけて、心身のバランスを崩し、学校生活への絶望はしばし希死念慮を伴うものであったが、そういったこと(と、ここに書ききれない諸々の出来事)が、いよいよ限界に達した。

 

そして私はヴァイオリンを手放した。14歳の夏のこと。

表向き、 当時所属していた吹奏楽部の活動と両立できないから、という理由で。

その実、これ以上ヴァイオリンを続けていくだけの気力が枯渇してしまったため。

 

中学高校の吹奏楽部も、これまた色々あったのだが、部活が楽しくなったのは、ヴァイオリンをやめて上級生が引退したその夏以降であった。高校二年の夏にいたるまでほんの3年の、短く、充実した音楽生活だったと思う。

 

 ここまで書くと、私はもう二度と音楽に関わらないと思われるかもしれないが、その後、長い中断(7年余り)を経て、今年から本格的に演奏を再開している。

音楽への見方は、幼き日とは違って、幾分斜に構えたもので、健全なアマチュアリズムの範囲内で楽しむものだと思っている。当時と比べれば、大幅に、聴くほうの比率が高くはなったけど。

 

これだけ、ヴァイオリンとそれに関わる怨嗟を書いてきたが、7歳のころから今まで一貫してるのは、音楽が好きだ、ということである。少なくとも、音楽を嫌いになったことは一度もない。

 

人に対する態度は、だいぶ変わったけれども。

 

究極の愛は、存在そのものへの愛だという。

私は、人の子であっても、まだ人の親ではないので、それを良くは理解できていない。

ただ、もし、存在そのものへの愛が私の精神より芽吹くとすれば、

それは、音楽に対して、音楽を奏でることを可能にする楽器に対して、自然に対して、そして、家族と友人に対してであってほしい、そう願っている。

音楽を愛するように、人を愛するということは、可能なのか。

 

人は、原理的に、分かり合えない。

分かり合えないから、恐ろしくもあり、傷つけ、支配したくもなる。

それが、ほとんどの人間に共通する本能だと思っている。

親子の、恋人の、友人の悲劇の多くは、自他の区別を弁えないことに多少なりとも由来していはしないか。

 

皮膚の皮一枚を隔てれば、その肉体には、全く別の魂が宿っている。

どれほど、二人が寄り添っていたとしても。

 

その、絶望的な隔離を認め、その上で、互いの自我を尊重する、

その在るがままを認める、という態度を、私は、仮に、愛情と呼びたい。

 

 

分裂

学べば学ぶほど、早く医者にならねばという焦りと、臨床医になるよりも医療に貢献できる道があるのではないかという疑念とが同時に出てきて、将来の自己像が揺らいでいる昨今である。

医師の仕事の何たるかも知らない、コメディカルの方々の仕事はまして知らない、医学的知識もない、という状況で、将来を云々しても仕方がない、とは分かっているはずなのだが。

 

機械論的宇宙観、あるいは平行線、そして日常の雑記

はじめに:なんの脈絡もない雑感であることをお許し願いたい。

 

週一回、生命科学の入門講義を受けている。

毎回感想を書くことで、単位が認定されるようなので、ここはひとつ、面白いことを書こう、と筆を走らせるのだが、なかなか言葉を尽くすことが難しい。

 

本日は、生命科学でありながら、熱力学・熱化学に属する話題であった。

かつて、唯物論を追い求めた私にとっては、終始、知的興奮からくる笑いの止まらない講義であった(その顔を見られなくて良かったと思っている。最前列に座る特権だ)。

 

熱力学の第一法則、エネルギーは、変換・伝達されうるが、決して無からも生じず、無へと消滅しない、というもの。

熱力学の第二法則、低温の熱源から高温の熱源に正の熱を移す際に、他に何の変化もおこさないようにすることはできない。所謂エントロピー増大の法則。

 

これらの美しい原理が、宇宙という閉鎖系(諸説あるようだが、閉鎖系ということにしておいてほしい)において成り立っている、ということ。そのことに戦慄にも似た感嘆を覚えずにはいられなかった。高校生なりし頃、人の精神活動、生体内の諸原理を、すべて物理化学的な現象に還元して解明せんとした、私だから余計である。

この身体が、すべて原子からできていて、その原子は素粒子でもあり、波である、という説明に、その昔、いたく感動したものだ。

 

教官の軽妙な話に耳を傾けつつ、しかしそれでも変わらなかったのは、言語による世界理解と数式による世界理解が、どこまでも平行線をたどるであろう、という認識である。その認識の半分は、昨年のエントリ

 

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 に書いた通りである。随分暇な受験生であったが、どうやら、医学生にはなれたようだ。どのような医者になるかは、まだ全く未知数であるが。

 

言語で記述される我々の心、社会、宇宙。究極的には数式で(これもまた言語ではあるのだが)記述されうる、物理化学的現象としての、我々の生、身体森羅万象。

両者を究めて、自己の内部での世界の分裂を止揚するには、そう、私は昔も、今もなお、あまりにも無学で無知なのだ。その止揚のために、個人的な探求心として、医学者(私は、医師と医学者は矛盾しないものだと考えている)を目指している節もある。

 

さて、すこしは私の日常の話をば。

北陸の地にきて、早くも一か月が経とうとしている。

車がないと、生活が不便である以外は、恵まれた環境と言うよりほかない。

不便というのも考えようで、便利というのは、往々にして人々の余計な消費欲求を掻き立てるのだ。例えば、24時間開いている小売店であり、都市そのものがそうなのだが。

 

私は前の大学生活を、その消費欲求に比較的素直に(と言っても、本代、食事代、CD代くらいだが)生き、自分が面白いと思ったこと以外、本を乱読するばかりで勉強をしなかったので、この環境に抗おうとしなければ、倹約にもなり、学問に割く時間も増えるというものである。

 

小高い台地のほぼ頂上に大学とアパートが位置しているので、晴れた日に見渡せる立山連邦の稜線には、ため息が出る。丁度、ブラームス交響曲第二番であるとか、ブルックナーの「ロマンティック」であるとか、自然礼賛の感情の元生み出されて来たであろう音楽の、作曲者の心境を少し垣間見た気がする。

 

公衆衛生系の研究室に参加した。すでにデスクもある。

浪人していなければ、博士課程一年目に在籍していてもいい年なので、在学中に、できれば前半のうちに、論文執筆と学会発表の機会があればいいと思っている。

もっとも、研究のというものは面白いからするのであって(過去の科学者だってそうだったはずだ)、論文の引用数であるとか、社会的な成果というのはあくまで付随的なものであるべきだ、という考えは捨てていない。

 

この年で部活でもあるまい、と思っていたが、十年ぶりにヴァイオリンを再開することにした。こちらも、楽しいからやる、という態度である。茶が好きという理由だけで、茶道部(サークルのほうが正しい気もするが)にも参加することになった。

 

唯一惜しむらくは、この地に、深夜に珈琲を啜りつつ、静かに本を読める喫茶店がないことくらいだろうか。

しかしこれも考えようで、日が沈んだら寝て、日の出とともに起きるほうが、身体の原理に適っているのかもしれない。もう、徹夜が身体に響くのを実感しているので余計。

 

油ものも、二十歳の時ほどは食べれなくなった。

その分、野菜を食べることにしている。

余談であるが、先日、身体年齢を測ったところ、実年齢のおよそ二倍であって、眩暈がした。春休みに連日ご相伴に与っていたら、この様である。

 

 

先日母校の京大を訪ねた。

暴風のため各駅停車で夜11時に到着し、翌日の昼前には帰るという強行スケジュールではあったが、昨年のセンター試験明け以来訪問できていなかった、大学のほど近くの行きつけだった飲み屋のママさんに挨拶できたので、良いとしよう。

大学は、以前自転車置き場だったのが、なんちゃら高等教育院という、大層立派なビルになっていて、倒壊寸前のサークル棟も、近代的な鉄筋コンクリート造りに変わっていた。

 

綺麗になるのは基本的にはいいことだが、京大というのは混沌とバンカラが持ち味みたいなもので、古いものも全部新しくすればいいというものでもなかろう。

前の総長改革で、随分京大も普通の大学になったね、とか、東大化したね、とか揶揄されたものだが(京大の連中に言わせれば、東大は、「東」京大らしいが、笑)あの放埓と隣り合わせの限りない自由と、綺麗でも洗練されてもいないけど、学生の体臭のプンプンする学生文化と、そして何より、多様性とそれへの寛容は、無くならないで欲しいと一OBとして願うばかりである。

 

ツイッターのヘッダの、出町デルタの風景を思い出すと、あまりに懐かしくて恋しくなるが、この夏の、茹で上がりそうな猛暑の折、また、京都を訪ねてみようと思う。

たった四年間、今までの人生の六分の一でしかないが、私の世界観に不可逆的な影響を与えてくれた、心のよりどころに。

 

そこで、久々に会う人たちと、酒を飲み交わせれば、至福である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉田山に懸かる朧月

一度エントリを書いたのだが、消えてしまった。

中島敦の「文字禍」を思い出したので、消えたエントリの方は気が向いたら書く。

 

先日、五年ぶりに、大学に入り直すことになった。

合格発表が一週間前で、その後周囲から祝福の言葉を受け(疎遠な友人、恩師にはこちらから報告し)、北陸の彼の地に新居を決め、手続きをしているうちに一週間があっという間に過ぎてしまった。

 

結論から言えば、医学部に入りなおして医師を(厳密に言えば、医師免許の取得を)目指す。

医師になろうと思ったのは、高校一年の晩秋であったから、言い様によっては足掛け九年の苦節、と言えなくもない。

もちろん、途中でリーマン・ショックがあり、あれで社会学、経済学や金融、社会哲学を学ぼうと思ったし(当時、金融工学デリバティブを取材したNHKスペシャルが非常によくできていた)、前の大学の合格発表の翌日に東日本大震災が発生して(故郷も関東地方ながら津波液状化の被害にあった)、浮かれた気分は一瞬で吹き飛んで、地に足のつかない現実感の無さを抱えたままその後一年過ごしたし、今思えば高校生の医師になりたい理由など、他愛のないものであったなと感じるし、一度医学以外の分野に進んで本当に良かったと思っている。

 

そして、震災から五年目の春が巡ってきた。

私は、阪神・淡路大震災を、保育園時代のテレビの向こうの映像としてしか知らないため、それについて当事者として語ることが出来ない。関西出身者が、もしくは在・関西圏の方がもし このエントリを読んで下さったら、意図的な忘却でないことをご承知願いたい。

 

以下は、私の高校卒業以来のごく大雑把な回顧録である。

 

私は、震災後の阿鼻叫喚の中、不気味なほどに平穏な時間の流れる京都のある大学に入学した。テレビで悲惨な映像が繰り返し流れる中、昨日まで当たり前だった日常の、なんと脆いことか、と実に驚いたが。

入学式の日、東山の疎水べりに咲く桜の美しさが、残酷なほどに心に残った。

 

その後は、男女比≒1:1の社交ダンスサークルにも入り、高校時代の同期の女性とも(遠距離ではあるが)交際して、世間的にはおそらく充実した大学生活に見えたことだろう。しかし、私にとって日々は常に空虚であった。自分でも気づいていなかったが、あの震災の与えた衝撃、および心の傷は、自分の実感以上に根深かったのだ。

 

もし、その空虚さの理由にあの時自分で気づいていれば、今の人生はもう少し違っていたかもしれない。工学部に転部ないし再入学して、防災の専門家を目指すこともできたのかもしれない。(これは、震災の記憶から地球科学系の教養科目を取っていたり、北アルプスの焼岳の麓の砂防観測所で実習に行ったりして、そう思ったのである。)或いは、もっと早く、医学部を受けなおして、来るべき巨大災害の中で救急医として働こうとしていたかもしれない。

しかし、その空虚さの中で、私は文学部に順当に進める進路を放棄して、経済学部に転部した。文学部で、人文学を続けることの意味を見失ってしまったのだ(今思うと、実に浅はかな考えであるが。実際、この春休みに読書しているSTS(科学技術と社会)の専門家が、まさに出身校の文学部にいらっしゃって、その方の著書を読んでいる)。

 

経済学部への転部届を出し、認められ、高名な会計学の専門家のゼミに配属され、件の女性と別れ、大阪の予備校に(バイトではあるが)講師の職を得、ようやく、自分で人生を選び取ったと感じたのであろう、その後一年間、大学二回生の前半の時期は、ただ一度だけ、大学生活を心から謳歌した(同時に、震災の記憶を心の闇の中に忘却することを選んだ)時期であった。もっとも、母の病気の再発で、そうした時期は半年ほどで終わってしまうのだが。

 

その後は、件の予備校で、同時に行きつけの店でバイトをしつつ、学費生活費を自弁する、世間的には苦学生といってもいい身分となった。この時代は苦しかったが、今に至る大事な友人たちと出会えた時期でもあったため、決して忘れ去りたい時期ではない。

 

そして、大学の三回生で、私は就職活動を始めた。

因果なことに、リーマン・ショックA級戦犯ともいえる(これは、不当な評価かもしれないことをご了承願いたい)、外資投資銀行を目指したのである。おそらく、苦学の中での金銭的余裕への執着、専門であったファイナンスの実務への興味が、私を駆り立てたのであろう。

 

結果は、惨敗であった。しかし、夏に某社の投資銀行部門インターンに行けたこと、秋に、某ファームのインターンに行けたことには、本当に掛け値なしで感謝している。

自分に、最も向かない仕事であることが分かったからだ。

ある種、就職活動が解禁される前に、就職活動に対し諦観を抱いてしまったのである。

 

医師になろう。

その思いが心に浮かんできたのも、その頃であった。

しかし、思い立ったころにはセンター試験の〆切も過ぎていて、仕方なく、私は、何度となく浪人時代に通った津田沼のファミレスで、煙草と灰皿の傍らで、書きたくもない応募書類を横目に、スーツ姿で生物の参考書を広げていた。

 

 おそらく、ここから導けるアドヴァイスは

①試験勉強には専念すべし

②(就職活動される方向け)自分が絶対に向かない業界を探せ。その後の不幸を避けるために。

 

の二点であろう。

 

話は戻る。

医師になりたいという思いを燻らせたまま、予備校の(よりにもよって、医学部専門予備校の)教壇に立ち、方や、外資投資銀行(+コンサルティングファーム)に就職活動をしていて、私は本来何をしたいかすっかり見失ってしまった。

当時のフェイスブックの投稿を見る限り、軽い抑うつ状態であったと思う(金融業界に最も向かない人間たるゆえんである)。

 

呆然自失のまま、就職活動を終了し、母校の吹奏楽部の定期演奏会に出た後、春の草木の息吹を見て、少し回復した私は、なぜか外資系高級ホテルの夜勤アルバイトに申し込んでしまう(予備校での仕事がなかったというのもある。生徒が前年度の入試結果を鑑みて激減したのだ)外資系好きだね、と言われるとそれは否めない。英語が好きだからだ(ちなみに英語圏への渡航経験はないが、意思疎通には事欠かない)。

 

そこでの半年間は、このエントリに書ききれない位濃い日々だった。

守秘義務で実名は出せないが、超VIPの方にも何度もあったし、そういう方々への接遇も体験した。玄人さんも幾度となく目にした。常連様にエントランスで怒鳴られたこともあった。口八丁で、ゲストからチップを頂いたことも数知れず。

 

記憶に残っていること。

ある日、アメリカの某有名大学の教授ご夫妻が来日されて、だいぶご老人であったが、京都駅の新幹線ホームまでお手伝いに行ったことがあった。旦那様(教授ご本人)も歩きにくそうにしており、奥様の方は杖をついていて、そのうえ、いったいどうやって運んだのだ、と思わんばかりの重い特大スーツケースを何個も抱えてらっしゃったからである。旧国鉄に問い合わせたところ、ポーターサービスはなく、駅員は介助出来ないとのこと。

全くの業務外ではあったが、ベルキャプテンと相談して、私服ではあるが行くことにした。コンコースでご夫妻を見つけ、初め驚かれていたが、大変だと思いまして、in privateですがお手伝いに参りました、と英語で述べるとお二人の顔がほころんだ。

新幹線のデッキに荷物を積み込み、最後、丁重にお礼して頂き、何とも言えない満足感があった。(自己満足、それで結構。)

 

夜中に8枚の布団を(和室の離れに)敷きに行ったこともあるし、悲鳴をあげそうなハプニングもあったし、勿論心温まる出来事ばかりではなかった。昼夜はほぼ逆転していた(し、ホテルの仮眠室に住んでいるような時期もあった)。

 

しかしそこで確信した。ホテルで/なくてもいいが、私は人相手の仕事が天職であると。

待遇も悪くなかったので、そのままそのホテルに契約社員として就職してもよかったのだが、そうはいかなかった。

それまでしこたま貯めこんでおいたチップで、北海道旅行に行ったためである。

 

二日目、夜に小樽の友人宅に行くまで、午後の時間がぽっかり空いてしまい、旭川までドライブすることにした。

富良野でも行けばよかったのであろうが、私は旭川医科大学に行った。特に深い理由はなく。

 

その日はまさに秋晴れで(確か2014年の9月16日であった)、附属病院の駐車場で車を降りた私は、空の広さと青さに暫く言葉が出なかった。

空というのは不思議なもので、洋の東西問わず、閃きやいい考えは、必ず「降ってくる」。(いい考えが地面から「生えてくる」という文化圏は寡聞にして聞いたことがない。加えておくと、日本では呆然として頭が「真っ白になる」が、ドイツでは頭が「真っ黒になる」そうだ。)

 

そこに来て、青空から、医師になろう、という忘れかけた決意が「降ってきた」。

丁度今度はセンター試験の願書も忘れずその場で貰い、本州に帰って即出願した。

残念ながら、同校に進学する、というドラマまでは実現できなかったが。

 

その後は名残惜しくも半年働いたホテルを退職し、受験生に戻り、センター試験は一度目は失敗し、その直後に卒業試験と卒業研究の発表をし、国公立大学記念受験し、と関東、関西、東北、四国を巡る大移動であった。

 

この浪人生活については、またエントリを改める。

いずれにせよ、最北の医科大で青い空を眺めているうちに、私は医師を本気で目指そうと思ったのだ。その一年半後、今こうして、医師の卵としてこのエントリを書いている。(奇しくも今日が丁度2016年3月16日だ。)

 

どういう医師になりたいか、もまたエントリを改めたい。

 

さて、題名の朧月。

私と父の和解の短い話である。

父も、同じ故郷で生まれ育ち、同じ京都の大学を(父の母校は鴨川を挟んで向こう側にある)卒業し、社会学の博士を取らんとして30で社会に出た人である。

 

昭和20年代の生まれで、好き嫌いを明確にし、厳格な人である。 

 私は、父を恐れていた。

父の前で、本音を剥き出しにして話したことなど、それまでほんの一度、二度であっただろう。

 

私の、いわゆる外資系企業への就職活動の失敗を知って、これからどうするんだ、という話を、静まり返った夜の大学構内で、法経本館の階段に腰かけて、電話でしていた。

丁度、四回生の頭、ホテルに就職する直前であったと思う。

私は、話をはぐらかしていたが、憑かれたように、過去のことを話し出した。泣きながら。

高校一年の時に、当時淡い想いを寄せていた女子が、うつ病になりやがて退学する過程をこの目でまざまざと見たこと。それで漠然と医師を目指したこと。文理選択で、当然理数科に鞍替えするつもりだったが、当時すでにうつ病を発症していた母の「国立現役のみ」という(思い込みに近い)言葉を真に受け、忖度し、泣く泣く理系を諦め(当時は、学力的に国公立医学部を目指せないでもなかったが、医学部に行くのでなければ理系に行く意味など無いと、浅はかにも思っていた)、文系クラスに嫌々進学したこと。うつ病の母の介助を、家族として経験して医学部進学への未練の募ったこと。京大にぎりぎりで落ち浪人が決まった時に、一度医学部を考えたこと。京大を目指したのは、医学部に行けないことの代償で、入ってから(楽しいことも多かれど、時たま)どれほど空虚さと虚しさと、自分が医者を目指すコースにいない事への怒りに駆られたか、ということ。そして今、就職活動に失敗し、将来への希望がなく、留年するための学費を稼ごうとしている、ということ。

ひとしきり話し終えて、嗚咽を漏らすと、父はこう返した。

「なぜ、それならそうと、その時々で言わなかったのだ」と。

 私は返した。

「祖父とあなたがそうであったように、父と子の相克で悲劇を二度と繰り返したくない」と。

父の父、私の祖父は、家族との不和から離婚し、酒に耽溺し、最後、房総の山中で首を吊って自死を選んだ。

 父は沈黙ののち、返した。

「お前は父親とは違う」と。

その言葉に私は激怒した。

父がそれまで、私にとってどれほど威圧的で、超えることのできない存在であった(と思い込んできた)か。祖母経由で知った、憶えていない祖父の最後が、どれほど小学生の私に衝撃的であったか。どれほど、私が忖度していたつもりであった、父の意向に逆らうことが困難を要したか。そういったことを知らずに、よくも抜けぬけとそんなことが言えるものですね、と。 

再び重い沈黙の後、父は口を開いた。

「お前の人生だ、お前しかそれに責任を持てない。医者になりたいなら、医学部に行け。もう定年だから、あまり学資の面倒は見てあげられないが。しかしお前ももう大人なのだから、自分で決めなさい。」

私は、いまさら何を、遅すぎる、等と吠えようとしたが、しかし、その言葉こそ、私が7年にわたって、最も父の口から聞きたかった言葉だったのだ。父を、もうこれ以上恨むところがあるだろうか。

「わかった。遅かれ早かれ、医者になります。学資は、自分で調達します。受験生になったら、実家に帰らせてください。」

 

二時間近く電話で話して、夜も更けたころに、大学のすぐそばの吉田山に朧月が懸かった。

父との和解の、象徴的な風景として、心にこれからも残るであろう。

 

 

 

その父と、先日、進学先で晩酌してきた。

昔、そんなこともあったね、という、笑い話であった。

今、父と和解し、心の蟠りを葬り去れたこと、これに勝る幸せはないと、思っている。

書いていて、若干の涙を禁じ得なかった。誤字があれば、申し訳ない。