雨の庭

人生回り道をしている元受験生、現医学生が、思うことをつらつらと。

読後メモ 「終末期の肺炎」(南山堂)

大浦 誠​先生(大浦誠 (@makotoura) | Twitter)編集の「終末期の肺炎」(通称「寿司本」)が本日手元に届きました。
ついついページをめくり、一気に拝読いたしました。

決して忘れ得ぬデザインの表紙の衝撃から始まり、肺炎の診断治療の難しさ、さらには医療経済的側面、法的・倫理的側面、EBM、治療の目標設定、緩和ケアまで、まさに「誤嚥性肺炎のエッセンス」ともいうべき素晴らしい書籍でした。今後、高齢者を診る科で誤嚥性肺炎に遭遇しないことはないと思うので、Generalist/Geriatrician志望ならずとも手元にn(≧1)冊置いておきたい書籍となると思います。

 

以下極私的感想兼メモ。
・「人生最期に食べたいものと聞かれたら寿司と答えるほど寿司が好き」(表紙カバー)
 九十九里→富山と今までの人生で海の幸に恵まれすぎた身として、完全に同意いたします。
・出産中に誤嚥性肺炎!?→産婦人科も考えている身ながらメンデルソン症候群を知りませんでした(本書p3)
・リハ栄養の項、詳しくは書けませんが個人的な見聞から心に突き刺さるものがありました。(本書p44~49)
 低栄養ゆえ更に「食べられなくなる」この悪循環、本当に怖いです。
・「食塊形成を行うためには歯だけではなく唾液の分泌と舌の協調運動が必要となる」。(本書p50~51)
 8020で十分だと思っていたが歯だけではダメ。
・恥ずかしながら本書で「終末期の3要件」を初めて正確に知りました(本書p69)
・p81、86の事例が、逝去した祖母がもし100歳まで生たとしたら、まさにこうだったであろうと思わずにはいられない設定で本を持つ手が震えました。
・「食べるということをどのような価値観で捉えているのか言語化するプロセスもゴール設定の要素として欠かせない」(本書p89)
・Vital talk(共感とSDM)は全専門科、全医療者対象のコミュニケーション技術。覚え方は”NURSE””REMAP"。
・前の大学で一瞬交渉に首を突っ込みましたが、まさか医学書で交渉術用語(BATNA、ZOPA)が出てくるとは思いもよりませんでした。(本書p148~151)
・患者のできそうなこと(Capability)と治療負担(treatment burden)とのバランスモデルを頭の中に思い描く(本書p162~163)

 

 

終末期の肺炎

終末期の肺炎

  • 発売日: 2020/12/22
  • メディア: 単行本
 

 

赤い川のほとりにて

最後の記事(※現在非公開)を書いたのがもう3年前らしい。 

久々に、心に溜めていた澱を吐き出す時だと思い、もう更新しないと思っていたブログに書き留める。

コロナ禍で変わってしまった世界から少し目を背け、この世界を見ることなく彼岸に召された亡き祖母の話。

 

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一年ほど前、その年の秋の訪れを感じさせた最初の日に、祖母は亡くなった。

 

大切な試験を直後に控え泣く泣く帰省を諦めた私に、電話越しに「ここまで生きたなら百歳まで生きたいね」とはっきりと言った、齢九十二歳の誕生日のわずか一週間後に、重症の細菌感染症を患い入院し、闘病虚しく二ヶ月であの世に召された。

なぜ、あの時帰省しなかったのか、と今も悔やんでいる。

 

その祖母の事を今になって敢えて書こうと思ったのは、最近全く偶然に祖母の最期を看取ってくれた方と出会う機会があったからだと思う。

 

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祖母の最期。

父とその姉妹が、毎晩交代で病室に泊まり、最期の日まで変わる変わる面倒を見ていた。

生前、九十歳を過ぎてから心臓にペースメーカーを埋め込まれ、大切にしていた右目を緑内障で失明してもなお、入院まで実家でほぼ自立した生活をしていた祖母であったから、その看病は父と姉妹にとっての最後の親孝行、祖母の死の受容のための準備期間になったという。

 

最近出会った、彼女の最期を看取ってくれた方から伺った話を聞いて、現代の医学的見地からも、祖母の病勢は極めて厳しく、その死が如何とも避け難かったものであったということを説明され、納得した。そして、最期を看取ってくれた先生方は祖母に十分に手を尽くして頂いていたということも。

 

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下総の小作ではない農家の四女として産まれ、女学校時代に先の大戦と学徒動員を身をもって経験し、戦後は幾多の困難と赤貧を乗り越え、殆ど女手一つで4人の子を育てた祖母の生活哲学は、まさに質素倹約の四文字に集約されていたと思う。

そして、他人の手を煩わせる事を最期まで嫌った。

 

その祖母の生きる上での楽しみの一つは、間違いなく「食べる」ことであったと思う。

戦中戦後に、戦火で/赤貧によって、その日の糧に事欠く経験を幾度となくした彼女にとって、食べ物があることがどれほど有難かったか、そして、食べ物を粗末にすることがどれほど罪深いことか、幼い頃から生前何度も言って聞かされた。 

 

米粒一つひとつを大切にすること、調理した食べ物は食べ切ること、など最近のエコのはしりのような教えを生前しつこいほどに聞かされた。

時には、冷蔵庫で小分けにして僅かな煮物の類も大切に取っておいたがために、最終的には酸っぱくなってしまって泣く泣く捨てることもあったほどに。

 

生の果物、ジャムとバターを塗ったパン、卵、和菓子などおそらくは戦時中貴重だったものを最期まで好み、持病のために口にする機会が制限されてもなお、食卓にそれらが並ぶ日は時間をかけて味わうように食べていた。九十歳を超えてからも、口に合ったラーメンは(汁以外)しっかりと完食していた健啖家でもあった。

 

祖母は最期、口から物を食べることができなくなっていたという。

食べることが生きることであった人にとって、それが、どれほど辛かったであろうか。そして、病床で、身の周りのことが徐々に出来なくなり、意識が遠のいていく日々も。

 

それでもなお祖母に生きていて欲しかったと思うのは、否定できない人情であり、しかし同時に私のエゴであった。

 

 幸いか不幸かーーーもはや私は永遠にそれを知る術がないがーーー口からものを食べれない状態で、自分が誰か分からず、人の手を煩わせて生きたくはない、と言っていた生前の祖母の願いは、最期の迎え方において、結果的に叶ったのであった。

 

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私の両親は共働きであったから、小学校低学年から高校卒業後の一度目の自宅浪人の期間まで、そして、二度目の自宅浪人をしている時ですら、おそらく両親よりも祖母と過ごした時間の方が長かったはずだ。

その存在が、過ごした時間が、私という一人の人間に与えた影響は計り知れない。

 

善悪の判断、話し方、文字、性格、味覚の好み、価値観、そして、ある種の生物学的特徴。

そして、高齢者への態度や話し方、高齢者を対象とする医学的領域への関心も、祖母との時間なくしてはあり得なかっただろう。

そしてその人生の終わりに、将来救急に携わろうとする者でありながら、両親からの電話越しに祖母の急変兆候を見抜けなかった悔しさは、まさにその死が私に刻み込んだものである。

 

そういった、私を形作った経験を振り返り、私がこの先進む道に視線を置くたび、死後もなお己の中に否応なく流れる、祖母からの「血」を感じずにはいられない。

そして、今もなお心の底を微かに覆う喪失感は、おそらく、過ごした時間の長さ故であるとともに、その「血」の濃さゆえなのだ。

 

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私も来年で三十路を迎える。

昔からの同級生を眺めれば、そろそろ、人の親になっても不思議では無い年齢である。

早く所帯を持ち、親から離れて、やがては早く子供を独立させよ、という父の教えは全く正しいように思う。

 

子を残すということは、否応なくそこに「血」を残すことである、ということが、祖母が教えてくれたことかもしれない。

先祖、記憶、地縁、血縁、行動規範、物語、教え、遺伝子、トラウマ、秘密‥etc。

 

時代錯誤的な祖先崇拝、儒教的価値観を私は礼賛したりなどしない。

 しかし、私という個人が、好むと好まざるとに関わらず、先祖からの「血」の大いなる流れの中に産まれ落ち、意図的に捨てない限り、そういったものを背負って生きていくことも確かなのだ。

そして、私がやがて伴侶との間に子孫を残すとき、否応なく、そうした「血」を分け与えることになるということも。

 

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暗澹たるニュースを意図的に切る。

そして「このご時世、この年末も帰省もできそうになくてごめんね、墓参りもできなくてごめんね」と、今私が渉るにはあまりにも深い、赤い川の向こうに逝った祖母に対して、心の中にて詫びる次第である。