雨の庭、ドビュッシーの「版画」より

人生回り道をしている元受験生、現医学生が、思うことをつらつらと。

風の音に

初めての記事がこんなのでいいのかな、と思いつつ。

久々に、天気図に台風を見た。
五月としては異例の、強い台風だという。

子供の頃、台風は、怖くもあり、また楽しみでもある、非日常な体験だった。
祖父の家に、超大型台風がくるその夜、泊まった。確か、5歳、6歳くらいの頃だと思う。
築30年余りのその家は、その当時でさえ相当古びていたが、不思議と、風には平静を保っていた。
雨戸が音を立て、小さな庭の木々の間を風が通り抜ける音を、怖いと思いつつ布団に絡まりながらも、どこか楽しんでいたあの頃。
翌日、空が晴れて、太陽が照りつける中、屋根から落ちて割れてしまったソーラー温水器の片付けをしていた祖父母の姿。その傍らで、割れてしまった事に驚きはしゃぐ私。とんだ孫だったことだろう。

さて、そこから20年近い時を経て、私は(今置かれてる社会的身分を除けば)名も実も大人になった。祖父母の家はその直後に、二階建ての立派なものに建て替えられ、往時の面影は、庭の鯉達と、金柑の木くらいである。

今、台風の夜に、あの頃の怖くも悦ばしい、わくわくする気持ちを持てるか?といえば、否である。
大人になるということの意味を考えた時に、その一面は、何かを得て、それを体系化していくことだろう。
知識、世間あるいは他者に対する態度、世界に対する認識。

そういったものが無かったからこそ、風の甲高い音や、木々の擦れあう音に、好奇心を抱いていられたのであろう。

今ならば、台風の起こるメカニズムや、それによってどれだけの人々が(見えると見えざるとに関わらず)苦労を被るか知っているし、台風を喜ぶということが、学生や疲弊した会社員でもなければ、どちらかといえば奇矯な振る舞いであるということを知っているし、吹き付けるその風によっても、幸い木造二階建てほ我が家はビクともしない、ということを知っている。
知っている、あるいは知ってしまった。

知ること、それ自体は、基本的には人間として生きるのに必要だし、悦ばしいことだと思っている(物書きとして、時たま幼少期を振り返る時には、この知識や経験が邪魔をするのだが)。

しかし、知ることによって、どれほど我々は失ったのだろう。

世界のあざやかさ、日々に潜む新たな発見、他愛ない喜び、他人へのやさしさ、慈しみ、素直さ、etc.

幼児退行を勧めているのではない。
況や、反知性主義を勧めているわけではない。

ただし、こんな眠れない夜には、知ることによって失った物事に、少しくらい思いを馳せてもいいと思うのだ。

ああ、大人になることの苦しみを書き損ねた。
深夜なので、また機会を改めるとしよう。