雨の庭、ドビュッシーの「版画」より

人生回り道をしている元受験生、現医学生が、思うことをつらつらと。

諸刃の剣

先日、とある理由で英文を読む機会を得た。

ヘレンケラー、ウィトゲンシュタイン、アフリカの原住民が登場する、言語についての論評である。

内容は、これといって目新しいものではなかったが、読んでいるうちに、以前口に出して、宙に浮かんだまま、何処かへ消えてしまった、ある想念を思い出すに至った。

 

「言葉は諸刃の剣である」

 

まことに陳腐な表現であるが、この書き方が、思うところをもっとも誤解なく伝えてくれると思い、タイトルに採用する。

 

人は言葉を得て、初めて人たるというのが、先ほどの英文の趣旨であった。ウィトゲンシュタインの、かの有名な一文も引かれていた。

なるほど、私も含めて、人は多くの面で言葉に感謝せざるを得ない。この雑記とて、日本語という、曖昧さと繊細さを伴った言語体系なくしてはそもそも書きようがないのだ(当方の拙い語学力と相まって)。

しかし、言葉によって、どれだけのものを失ったであろう。

 

「感動」「衝撃」

これもその一つで、この資本主義の論理が通底する消費社会で、この言葉を目にしない日はないだろう。

感動のラストシーン、衝撃の展開、etc。

この安易な言葉さえあれば、多くの人はチョット覗いてみる、という気持ちで、あらゆる表現作品を消費して、それによって今日も誰かの懐を潤していくのだ。

 

ただ、本来、感動は言葉に出来るのだろうか?

言葉があるからこそ、我々は「感動」するのか、或いは、その逆で、我々の感覚のある変化を、言語に対応させただけなのか。

両者とも然り、だと思う。

 

高校生の頃、とある屈折した個人的な理由で、社会科学と心理学に興味を持っていた。

人の-----個人の、或いは、先の金融危機の真っ只中だったが故か、社会ないし組織が必然的に生み出す-----病理に否応無く興味を抱いたのである。

しかし、その中でも、私の心の大部分を占めていた問いは

「人はなぜ心を病むのか、言葉が無ければ、人は心を病まずに済むのか?」というものである。

 

問いを抱くに至る経緯は、未だ語るまい。

あまりに個人的で、今思うと面映ゆく、心苦しくもあり、どうしてもあの当時の感情を追体験してしまうから。

 

今も、その問いを突きつけられれば、確たる答えは出ないし、煎じつめて言えば、おそらく最新の脳科学、医学の成果にお出まし願うしかないだろう。

 

ただ、幾つかの思考実験をしてみると、言葉というものがより現実を鋭利に研ぎ澄まして、我々の心にそれを突き立ててくる気がしてならなかったのだ。

 

ペンは剣より強し、ではないが。

ことばは時に、身体的な暴力以上に、我々のこころを蝕む。

 

 

暴力、孤独、病、死。

おそらく、ヒトに特有の現象ではあるまい。

弱肉強食の世界では、むしろ日常の出来事であろう(だからこそ食物連鎖は保たれるのだが)。

 

私はひとりである。

私の隣の人が死んだ。

 

こうした文は事実の叙述以外、何も表していないように思える。言葉を経由しなくても、こうした現状認識を多くの動物はし得るはずだ(間違いかもしれない。生物学か生態学の先生に聞いてほしい)。

 

しかし、

(私にはかつて多くの友達と家族がいたのだが、私の人格的欠陥と、貧困の挙句、彼らは皆離れていき、今その結果として)私はひとりである。

とか、

私の隣の(三十年以上寄り添い、いつでも家族の中で一番身近で、何でも話せる、昨日まで何の変わりもなかった、家系図上では私の祖母という)人が死んだ

では、おそらく、当事者に与える精神的影響が全く違う気がする。

 

言葉の明晰さは、多くのものを我々に与えてくれた。我々の今日があるように。

その一方で、言葉は現実を鋭利に研ぎ澄まして、容赦なく我々にその刃を突き立ててくるのだろう。

 

ところで、動物はうつ病になるのか。

寡聞にして私は知らない。

ただ、彼ら、とくにペットないしコンパニオンアニマルなどは、人間でいう精神病に類似した症状を呈することもあるらしい。

 

おそらく、人間の文明に組み込まれて初めて、彼らの受難は始まったのだろう。

虐待にあい、人を避けるように生きる犬。

首輪をつながれ、家の中で暮らす猫。

 

愛犬を撫でながら、お前を放してやりたいのだよ、と思いつつ、彼の頭を撫でている。彼はすり寄り、物言わず、私の顔をじっと見る。

 

こころの病は、そうすると、我々人間が、文明を手に入れるにあたって払った代価の一つのようにも思えるのだ(同種間の大量殺戮がそうであるように。)

 

今でも、意識と感情の正体を知らない。

それは脳のある領域で起こる、究極的には原子レベルの振る舞いで説明がつくはずなのだが。どこまでも物理法則ととことばは交わらない。

 

 

今、こうして、勤労の義務も、納税の義務も果たさず、国家の血税で学んだ高等教育四年間の成果を捨ててもなお、人の意識、感情、それを支える言語を、身体に関する学問を、学びなおそうとしている。

 

道楽のために血税を使うなかれ、働くべし。

そうした批判は甘んじて受ける。

 

ただ、あらゆる世間的名利を捨ててそうせざるを得ないのは、

「人間とは何か」

という根源的な問いへの探究であると思っている。

 

今まで、人に苦しめられ、人に助けられ、人を愛したからこそ、

その問いは、自ずから、私とは何者か、という問いへの答えでもある。

 

 干支を二回り生きて、その問いこそが、一生探究するに値するものだ、と思うに至った。

 

学問の成果を還元する、などと不遜なことは言わない。

日々人と接する中で、その問いを常に己に問いかけることを、人々が許してくれれば、そして、その問いへの答えが、朧げにでも得られれば、幸いだと思っている。

勤労者になるのは、もう少し先の事かもしれないが。

 

昔、ことばに斬られた古傷をかばいつつ、これからもその諸刃の剣の手入れは、欠かすことが出来なそうである。