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雨の庭、ドビュッシーの「版画」より

人生回り道をしている元受験生、現医学生が、思うことをつらつらと。

吉田山に懸かる朧月

一度エントリを書いたのだが、消えてしまった。

中島敦の「文字禍」を思い出したので、消えたエントリの方は気が向いたら書く。

 

先日、五年ぶりに、大学に入り直すことになった。

合格発表が一週間前で、その後周囲から祝福の言葉を受け(疎遠な友人、恩師にはこちらから報告し)、北陸の彼の地に新居を決め、手続きをしているうちに一週間があっという間に過ぎてしまった。

 

結論から言えば、医学部に入りなおして医師を(厳密に言えば、医師免許の取得を)目指す。

医師になろうと思ったのは、高校一年の晩秋であったから、言い様によっては足掛け九年の苦節、と言えなくもない。

もちろん、途中でリーマン・ショックがあり、あれで社会学、経済学や金融、社会哲学を学ぼうと思ったし(当時、金融工学デリバティブを取材したNHKスペシャルが非常によくできていた)、前の大学の合格発表の翌日に東日本大震災が発生して(故郷も関東地方ながら津波液状化の被害にあった)、浮かれた気分は一瞬で吹き飛んで、地に足のつかない現実感の無さを抱えたままその後一年過ごしたし、今思えば高校生の医師になりたい理由など、他愛のないものであったなと感じるし、一度医学以外の分野に進んで本当に良かったと思っている。

 

そして、震災から五年目の春が巡ってきた。

私は、阪神・淡路大震災を、保育園時代のテレビの向こうの映像としてしか知らないため、それについて当事者として語ることが出来ない。関西出身者が、もしくは在・関西圏の方がもし このエントリを読んで下さったら、意図的な忘却でないことをご承知願いたい。

 

以下は、私の高校卒業以来のごく大雑把な回顧録である。

 

私は、震災後の阿鼻叫喚の中、不気味なほどに平穏な時間の流れる京都のある大学に入学した。テレビで悲惨な映像が繰り返し流れる中、昨日まで当たり前だった日常の、なんと脆いことか、と実に驚いたが。

入学式の日、東山の疎水べりに咲く桜の美しさが、残酷なほどに心に残った。

 

その後は、男女比≒1:1の社交ダンスサークルにも入り、高校時代の同期の女性とも(遠距離ではあるが)交際して、世間的にはおそらく充実した大学生活に見えたことだろう。しかし、私にとって日々は常に空虚であった。自分でも気づいていなかったが、あの震災の与えた衝撃、および心の傷は、自分の実感以上に根深かったのだ。

 

もし、その空虚さの理由にあの時自分で気づいていれば、今の人生はもう少し違っていたかもしれない。工学部に転部ないし再入学して、防災の専門家を目指すこともできたのかもしれない。(これは、震災の記憶から地球科学系の教養科目を取っていたり、北アルプスの焼岳の麓の砂防観測所で実習に行ったりして、そう思ったのである。)或いは、もっと早く、医学部を受けなおして、来るべき巨大災害の中で救急医として働こうとしていたかもしれない。

しかし、その空虚さの中で、私は文学部に順当に進める進路を放棄して、経済学部に転部した。文学部で、人文学を続けることの意味を見失ってしまったのだ(今思うと、実に浅はかな考えであるが。実際、この春休みに読書しているSTS(科学技術と社会)の専門家が、まさに出身校の文学部にいらっしゃって、その方の著書を読んでいる)。

 

経済学部への転部届を出し、認められ、高名な会計学の専門家のゼミに配属され、件の女性と別れ、大阪の予備校に(バイトではあるが)講師の職を得、ようやく、自分で人生を選び取ったと感じたのであろう、その後一年間、大学二回生の前半の時期は、ただ一度だけ、大学生活を心から謳歌した(同時に、震災の記憶を心の闇の中に忘却することを選んだ)時期であった。もっとも、母の病気の再発で、そうした時期は半年ほどで終わってしまうのだが。

 

その後は、件の予備校で、同時に行きつけの店でバイトをしつつ、学費生活費を自弁する、世間的には苦学生といってもいい身分となった。この時代は苦しかったが、今に至る大事な友人たちと出会えた時期でもあったため、決して忘れ去りたい時期ではない。

 

そして、大学の三回生で、私は就職活動を始めた。

因果なことに、リーマン・ショックA級戦犯ともいえる(これは、不当な評価かもしれないことをご了承願いたい)、外資投資銀行を目指したのである。おそらく、苦学の中での金銭的余裕への執着、専門であったファイナンスの実務への興味が、私を駆り立てたのであろう。

 

結果は、惨敗であった。しかし、夏に某社の投資銀行部門インターンに行けたこと、秋に、某ファームのインターンに行けたことには、本当に掛け値なしで感謝している。

自分に、最も向かない仕事であることが分かったからだ。

ある種、就職活動が解禁される前に、就職活動に対し諦観を抱いてしまったのである。

 

医師になろう。

その思いが心に浮かんできたのも、その頃であった。

しかし、思い立ったころにはセンター試験の〆切も過ぎていて、仕方なく、私は、何度となく浪人時代に通った津田沼のファミレスで、煙草と灰皿の傍らで、書きたくもない応募書類を横目に、スーツ姿で生物の参考書を広げていた。

 

 おそらく、ここから導けるアドヴァイスは

①試験勉強には専念すべし

②(就職活動される方向け)自分が絶対に向かない業界を探せ。その後の不幸を避けるために。

 

の二点であろう。

 

話は戻る。

医師になりたいという思いを燻らせたまま、予備校の(よりにもよって、医学部専門予備校の)教壇に立ち、方や、外資投資銀行(+コンサルティングファーム)に就職活動をしていて、私は本来何をしたいかすっかり見失ってしまった。

当時のフェイスブックの投稿を見る限り、軽い抑うつ状態であったと思う(金融業界に最も向かない人間たるゆえんである)。

 

呆然自失のまま、就職活動を終了し、母校の吹奏楽部の定期演奏会に出た後、春の草木の息吹を見て、少し回復した私は、なぜか外資系高級ホテルの夜勤アルバイトに申し込んでしまう(予備校での仕事がなかったというのもある。生徒が前年度の入試結果を鑑みて激減したのだ)外資系好きだね、と言われるとそれは否めない。英語が好きだからだ(ちなみに英語圏への渡航経験はないが、意思疎通には事欠かない)。

 

そこでの半年間は、このエントリに書ききれない位濃い日々だった。

守秘義務で実名は出せないが、超VIPの方にも何度もあったし、そういう方々への接遇も体験した。玄人さんも幾度となく目にした。常連様にエントランスで怒鳴られたこともあった。口八丁で、ゲストからチップを頂いたことも数知れず。

 

記憶に残っていること。

ある日、アメリカの某有名大学の教授ご夫妻が来日されて、だいぶご老人であったが、京都駅の新幹線ホームまでお手伝いに行ったことがあった。旦那様(教授ご本人)も歩きにくそうにしており、奥様の方は杖をついていて、そのうえ、いったいどうやって運んだのだ、と思わんばかりの重い特大スーツケースを何個も抱えてらっしゃったからである。旧国鉄に問い合わせたところ、ポーターサービスはなく、駅員は介助出来ないとのこと。

全くの業務外ではあったが、ベルキャプテンと相談して、私服ではあるが行くことにした。コンコースでご夫妻を見つけ、初め驚かれていたが、大変だと思いまして、in privateですがお手伝いに参りました、と英語で述べるとお二人の顔がほころんだ。

新幹線のデッキに荷物を積み込み、最後、丁重にお礼して頂き、何とも言えない満足感があった。(自己満足、それで結構。)

 

夜中に8枚の布団を(和室の離れに)敷きに行ったこともあるし、悲鳴をあげそうなハプニングもあったし、勿論心温まる出来事ばかりではなかった。昼夜はほぼ逆転していた(し、ホテルの仮眠室に住んでいるような時期もあった)。

 

しかしそこで確信した。ホテルで/なくてもいいが、私は人相手の仕事が天職であると。

待遇も悪くなかったので、そのままそのホテルに契約社員として就職してもよかったのだが、そうはいかなかった。

それまでしこたま貯めこんでおいたチップで、北海道旅行に行ったためである。

 

二日目、夜に小樽の友人宅に行くまで、午後の時間がぽっかり空いてしまい、旭川までドライブすることにした。

富良野でも行けばよかったのであろうが、私は旭川医科大学に行った。特に深い理由はなく。

 

その日はまさに秋晴れで(確か2014年の9月16日であった)、附属病院の駐車場で車を降りた私は、空の広さと青さに暫く言葉が出なかった。

空というのは不思議なもので、洋の東西問わず、閃きやいい考えは、必ず「降ってくる」。(いい考えが地面から「生えてくる」という文化圏は寡聞にして聞いたことがない。加えておくと、日本では呆然として頭が「真っ白になる」が、ドイツでは頭が「真っ黒になる」そうだ。)

 

そこに来て、青空から、医師になろう、という忘れかけた決意が「降ってきた」。

丁度今度はセンター試験の願書も忘れずその場で貰い、本州に帰って即出願した。

残念ながら、同校に進学する、というドラマまでは実現できなかったが。

 

その後は名残惜しくも半年働いたホテルを退職し、受験生に戻り、センター試験は一度目は失敗し、その直後に卒業試験と卒業研究の発表をし、国公立大学記念受験し、と関東、関西、東北、四国を巡る大移動であった。

 

この浪人生活については、またエントリを改める。

いずれにせよ、最北の医科大で青い空を眺めているうちに、私は医師を本気で目指そうと思ったのだ。その一年半後、今こうして、医師の卵としてこのエントリを書いている。(奇しくも今日が丁度2016年3月16日だ。)

 

どういう医師になりたいか、もまたエントリを改めたい。

 

さて、題名の朧月。

私と父の和解の短い話である。

父も、同じ故郷で生まれ育ち、同じ京都の大学を(父の母校は鴨川を挟んで向こう側にある)卒業し、社会学の博士を取らんとして30で社会に出た人である。

 

昭和20年代の生まれで、好き嫌いを明確にし、厳格な人である。 

 私は、父を恐れていた。

父の前で、本音を剥き出しにして話したことなど、それまでほんの一度、二度であっただろう。

 

私の、いわゆる外資系企業への就職活動の失敗を知って、これからどうするんだ、という話を、静まり返った夜の大学構内で、法経本館の階段に腰かけて、電話でしていた。

丁度、四回生の頭、ホテルに就職する直前であったと思う。

私は、話をはぐらかしていたが、憑かれたように、過去のことを話し出した。泣きながら。

高校一年の時に、当時淡い想いを寄せていた女子が、うつ病になりやがて退学する過程をこの目でまざまざと見たこと。それで漠然と医師を目指したこと。文理選択で、当然理数科に鞍替えするつもりだったが、当時すでにうつ病を発症していた母の「国立現役のみ」という(思い込みに近い)言葉を真に受け、忖度し、泣く泣く理系を諦め(当時は、学力的に国公立医学部を目指せないでもなかったが、医学部に行くのでなければ理系に行く意味など無いと、浅はかにも思っていた)、文系クラスに嫌々進学したこと。うつ病の母の介助を、家族として経験して医学部進学への未練の募ったこと。京大にぎりぎりで落ち浪人が決まった時に、一度医学部を考えたこと。京大を目指したのは、医学部に行けないことの代償で、入ってから(楽しいことも多かれど、時たま)どれほど空虚さと虚しさと、自分が医者を目指すコースにいない事への怒りに駆られたか、ということ。そして今、就職活動に失敗し、将来への希望がなく、留年するための学費を稼ごうとしている、ということ。

ひとしきり話し終えて、嗚咽を漏らすと、父はこう返した。

「なぜ、それならそうと、その時々で言わなかったのだ」と。

 私は返した。

「祖父とあなたがそうであったように、父と子の相克で悲劇を二度と繰り返したくない」と。

父の父、私の祖父は、家族との不和から離婚し、酒に耽溺し、最後、房総の山中で首を吊って自死を選んだ。

 父は沈黙ののち、返した。

「お前は父親とは違う」と。

その言葉に私は激怒した。

父がそれまで、私にとってどれほど威圧的で、超えることのできない存在であった(と思い込んできた)か。祖母経由で知った、憶えていない祖父の最後が、どれほど小学生の私に衝撃的であったか。どれほど、私が忖度していたつもりであった、父の意向に逆らうことが困難を要したか。そういったことを知らずに、よくも抜けぬけとそんなことが言えるものですね、と。 

再び重い沈黙の後、父は口を開いた。

「お前の人生だ、お前しかそれに責任を持てない。医者になりたいなら、医学部に行け。もう定年だから、あまり学資の面倒は見てあげられないが。しかしお前ももう大人なのだから、自分で決めなさい。」

私は、いまさら何を、遅すぎる、等と吠えようとしたが、しかし、その言葉こそ、私が7年にわたって、最も父の口から聞きたかった言葉だったのだ。父を、もうこれ以上恨むところがあるだろうか。

「わかった。遅かれ早かれ、医者になります。学資は、自分で調達します。受験生になったら、実家に帰らせてください。」

 

二時間近く電話で話して、夜も更けたころに、大学のすぐそばの吉田山に朧月が懸かった。

父との和解の、象徴的な風景として、心にこれからも残るであろう。

 

 

 

その父と、先日、進学先で晩酌してきた。

昔、そんなこともあったね、という、笑い話であった。

今、父と和解し、心の蟠りを葬り去れたこと、これに勝る幸せはないと、思っている。

書いていて、若干の涙を禁じ得なかった。誤字があれば、申し訳ない。