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雨の庭、ドビュッシーの「版画」より

人生回り道をしている元受験生、現医学生が、思うことをつらつらと。

機械論的宇宙観、あるいは平行線、そして日常の雑記

はじめに:なんの脈絡もない雑感であることをお許し願いたい。

 

週一回、生命科学の入門講義を受けている。

毎回感想を書くことで、単位が認定されるようなので、ここはひとつ、面白いことを書こう、と筆を走らせるのだが、なかなか言葉を尽くすことが難しい。

 

本日は、生命科学でありながら、熱力学・熱化学に属する話題であった。

かつて、唯物論を追い求めた私にとっては、終始、知的興奮からくる笑いの止まらない講義であった(その顔を見られなくて良かったと思っている。最前列に座る特権だ)。

 

熱力学の第一法則、エネルギーは、変換・伝達されうるが、決して無からも生じず、無へと消滅しない、というもの。

熱力学の第二法則、低温の熱源から高温の熱源に正の熱を移す際に、他に何の変化もおこさないようにすることはできない。所謂エントロピー増大の法則。

 

これらの美しい原理が、宇宙という閉鎖系(諸説あるようだが、閉鎖系ということにしておいてほしい)において成り立っている、ということ。そのことに戦慄にも似た感嘆を覚えずにはいられなかった。高校生なりし頃、人の精神活動、生体内の諸原理を、すべて物理化学的な現象に還元して解明せんとした、私だから余計である。

この身体が、すべて原子からできていて、その原子は素粒子でもあり、波である、という説明に、その昔、いたく感動したものだ。

 

教官の軽妙な話に耳を傾けつつ、しかしそれでも変わらなかったのは、言語による世界理解と数式による世界理解が、どこまでも平行線をたどるであろう、という認識である。その認識の半分は、昨年のエントリ

 

jardinsouslapluie.hatenablog.com

 に書いた通りである。随分暇な受験生であったが、どうやら、医学生にはなれたようだ。どのような医者になるかは、まだ全く未知数であるが。

 

言語で記述される我々の心、社会、宇宙。究極的には数式で(これもまた言語ではあるのだが)記述されうる、物理化学的現象としての、我々の生、身体森羅万象。

両者を究めて、自己の内部での世界の分裂を止揚するには、そう、私は昔も、今もなお、あまりにも無学で無知なのだ。その止揚のために、個人的な探求心として、医学者(私は、医師と医学者は矛盾しないものだと考えている)を目指している節もある。

 

さて、すこしは私の日常の話をば。

北陸の地にきて、早くも一か月が経とうとしている。

車がないと、生活が不便である以外は、恵まれた環境と言うよりほかない。

不便というのも考えようで、便利というのは、往々にして人々の余計な消費欲求を掻き立てるのだ。例えば、24時間開いている小売店であり、都市そのものがそうなのだが。

 

私は前の大学生活を、その消費欲求に比較的素直に(と言っても、本代、食事代、CD代くらいだが)生き、自分が面白いと思ったこと以外、本を乱読するばかりで勉強をしなかったので、この環境に抗おうとしなければ、倹約にもなり、学問に割く時間も増えるというものである。

 

小高い台地のほぼ頂上に大学とアパートが位置しているので、晴れた日に見渡せる立山連邦の稜線には、ため息が出る。丁度、ブラームス交響曲第二番であるとか、ブルックナーの「ロマンティック」であるとか、自然礼賛の感情の元生み出されて来たであろう音楽の、作曲者の心境を少し垣間見た気がする。

 

公衆衛生系の研究室に参加した。すでにデスクもある。

浪人していなければ、博士課程一年目に在籍していてもいい年なので、在学中に、できれば前半のうちに、論文執筆と学会発表の機会があればいいと思っている。

もっとも、研究のというものは面白いからするのであって(過去の科学者だってそうだったはずだ)、論文の引用数であるとか、社会的な成果というのはあくまで付随的なものであるべきだ、という考えは捨てていない。

 

この年で部活でもあるまい、と思っていたが、十年ぶりにヴァイオリンを再開することにした。こちらも、楽しいからやる、という態度である。茶が好きという理由だけで、茶道部(サークルのほうが正しい気もするが)にも参加することになった。

 

唯一惜しむらくは、この地に、深夜に珈琲を啜りつつ、静かに本を読める喫茶店がないことくらいだろうか。

しかしこれも考えようで、日が沈んだら寝て、日の出とともに起きるほうが、身体の原理に適っているのかもしれない。もう、徹夜が身体に響くのを実感しているので余計。

 

油ものも、二十歳の時ほどは食べれなくなった。

その分、野菜を食べることにしている。

余談であるが、先日、身体年齢を測ったところ、実年齢のおよそ二倍であって、眩暈がした。春休みに連日ご相伴に与っていたら、この様である。

 

 

先日母校の京大を訪ねた。

暴風のため各駅停車で夜11時に到着し、翌日の昼前には帰るという強行スケジュールではあったが、昨年のセンター試験明け以来訪問できていなかった、大学のほど近くの行きつけだった飲み屋のママさんに挨拶できたので、良いとしよう。

大学は、以前自転車置き場だったのが、なんちゃら高等教育院という、大層立派なビルになっていて、倒壊寸前のサークル棟も、近代的な鉄筋コンクリート造りに変わっていた。

 

綺麗になるのは基本的にはいいことだが、京大というのは混沌とバンカラが持ち味みたいなもので、古いものも全部新しくすればいいというものでもなかろう。

前の総長改革で、随分京大も普通の大学になったね、とか、東大化したね、とか揶揄されたものだが(京大の連中に言わせれば、東大は、「東」京大らしいが、笑)あの放埓と隣り合わせの限りない自由と、綺麗でも洗練されてもいないけど、学生の体臭のプンプンする学生文化と、そして何より、多様性とそれへの寛容は、無くならないで欲しいと一OBとして願うばかりである。

 

ツイッターのヘッダの、出町デルタの風景を思い出すと、あまりに懐かしくて恋しくなるが、この夏の、茹で上がりそうな猛暑の折、また、京都を訪ねてみようと思う。

たった四年間、今までの人生の六分の一でしかないが、私の世界観に不可逆的な影響を与えてくれた、心のよりどころに。

 

そこで、久々に会う人たちと、酒を飲み交わせれば、至福である。